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最高の小倉優子さんのために

僕は几帳面だ。DVDを見た後も、その都度プレイヤーからディスクを取り出してケースに入れる。でも時々、エッチなDVDがプレイヤーに入ったままになっている世にも不思議な物語。登場人物は田中家に棲みついている父、母、僕の3名。すなわち犯人は座敷童子もしくは田中父であり、萎える。跡を濁さないで立てなさい、と言いたい。でもそんな、老いてなお盛んな畏怖の象徴であるかのように、お父さんバイブという名前のグッズが存在する。すると僕は熊ん子だ。でも僕の知る限り、お爺さんバイブは存在しない。なぜならバイブをお爺さんに見立てるまでもなく、いつもぶるぶる震えているお爺さんそのものがバイブであり、彼らはいつだってグルーヴに乗って山へ芝刈りに行くのだ。その様子をお婆さんがどんな気持ちで見つめているのかは知る由もないけれど、このように小倉優子さんを盛り上げるためのグッズが科学の発達によってもたらされているわけで。小倉優子さんにもっとも魅了されるのは少年から大人に変わるその狭間であるはずなのに、これらのグッズが大人以外の目には触れられないようになされているのはなんとも腑に落ちないわけで。


僕自身の小倉優子さんのピークも中三の頃だった。コクヨだかコイズミだかの学習机の平べったいほうの引き出しに人生の教科書を隠し、いつでも息ヌキ、すなわちエンジョイプレイできる状態をキープし、割合としては勉強が7、小倉優子さんが3ぐらいで受験戦争に生き残ろうとあがいていた。でもそのうちに、受験という現実から逃避するための手段として、小倉優子さんを利用している自分に気づいた。もっと真摯に小倉優子さんと向き合わねばなるまいと気持ちを新たにするその一方で、自分が気づいてないだけで、実は別の顔を持った小倉優子さんがどこかにいるのではないかと考えたりもした。ふと気づくと勉強が3、小倉優子さんが7ぐらいになっている時も少なくなく、僕の小倉優子さんに関する探究心はとどまることを知らず、またエンジョイしている様子を母親に目撃されたりと、いくつかの修羅場をくぐり抜けたりもしながらずるずると成績は下がっていった。


持つべきものは友である。友人のたった一言によって、僕は素顔の小倉優子さんを垣間見ることになった。遥か昔に人間が道具を使うことを覚えたように、僕とてまた道具を使うことを覚えたのだった。歴史は繰り返される、とはまさにこのことだった。「大人のオモチャ」が手に入れられないのなら、自ら「思春期のオモチャ」を作ろう。真実を手に入れられるなら、僕は悪魔に魂だって売るさ。そう誓いながら、こんにゃくの真ん中に少し切れ目を入れてやり、自分のうまい棒を差し込んで、こんにゃくを激しく動かしてみた。たったこれだけのことで、すごぶる気持ちがよくなった。頭の中が真っ白になり、思わずうほっと声が漏れたりした。慣れないうちは切れ目を入れすぎてぐずぐずになることもあったけれど、そこだけ注意しておけば、僕にとってこんにゃくとは、別の意味でオカズと言えた。ただ悲しいかな、これは意外と知られていないことなのだけど、中学生にとってこんにゃくを手に入れるのは非常にむつかしい。冷蔵庫にあるやつを使うと母親が不審に思うだろうし、定期的にスーパーへこんにゃくのみを買いに来る中学生はかなりシュールな野郎だし、人生の教科書のように川原には落ちてない。ならどうすればいい。受験勉強に何の意味も見出せなくなり、こんにゃくと小倉優子さんを夢想して、朝起きたらパンツがパリパリになったりしていた。


お年玉よりこんにゃくを欲しがる中学生ってさすがにどうなんだろうと思いつつ、毎日が充実していた。自宅での小倉優子さんに向き合う時間に加えて、学校での休み時間や帰宅中などに友達とも議論を交わすようになり、その議論の輪は少しずつ大きくなり、ついには膨大な小倉優子さんネットワーク(通称:おぐネット)が誕生することになった。これが今のインターネットに多かれ少なかれの影響を与えているのは今更語るべきではないので省略するけれど、次に我々が得たアイテムはカップヌードルだった。お湯を入れて3分待ち、お箸ではなく自分のうまい棒を差し込み、容器を激しく動かしてみると、麺がいい具合に絡んでこれまた極上の、めくるめく快感を得ることができた。他のカップ麺でも試したものの、容器が縦に長くて片手で持てる点と、なによりヌードルという語感に我々は高い評価を与え、カップヌードルが最も優れているという決断を下した。カップヌードルの売り上げが爆発的に伸び、売り切れになる店が続出した。オイルショックの次はカップヌードルショックであり、米騒動の次はカップヌードル騒動であり、中学生日記の次は中学生一揆であり、さまざまな事件が発生した。他に、お湯の温度を間違えたり、冷まさなかったり、普通味ではなくカレー味を使用してしまったりと、いくつかの悲劇が起こったこともここに記録として残しておきたい。うまい棒がチリ味みたいになってさー、と笑えるようになるまでは、かなりの時間が必要だったから…。


欠かせない存在ということは、つまり欠かさずに励んできたということ?ナニモノにも代えがたいというのは、つまりナニモノにも成りうるということ?かけがえのないモノこそがかけがえのないモノを殺すということ?そこには哲学的理由がありますか?真麻はそんなこと言わない?長くなったのでこの先はまたいつか機会があれば書こうと思うけど、でもあの頃の僕ならきっと、メガネいいんちょの「食べ物を粗末にしてはいけませんっ!」というツッコミにもうまいこと切り返せただろうとは思う。


「むしろ突っ込んでるのはこっちだよ!」
「廊下で立ってなさい!」
「もう立っちゃってるよ!」
「せ、先生!田中くんがすごいんです!」
「田中くんは放課後に職員室まで来なさい!」
「放課後の職員室…。うへへ」

さよなら妖精

さよなら妖精