フランク・クラウザーさんの声が聴こえた日の話

昨日の話になりますが、仕事を終えて帰宅すると居間のテーブルにメモ書きが置いてあり、父と母が山陰方面の温泉地へ旅立ったことに読むまでもなく気づきました。二泊するとのことでした。田中家ではよくあることです。

近所の中華料理屋へ行き、異様な重さのチャンポン麺とドス黒い鶏の唐揚げ、もっちゃりした半ライスという定番メニューを胃袋に収めていると、「まだ仕事中ですか?」とゆり子さんからメールが送られてきました。ゆり子さんとはわたしが好きになった女の人のことであり、石田ゆり子さんとはまったくの無関係です。笑顔がまぶしくて直視できないというのは共通点かもしれませんが、彼女がわたしをどう思っているかについては今のところ謎。世の中には知らないでいいことがある。それは彼女のほうとてまた然り。大人のお店でわたしが赤ちゃんになりきっていることも知られていません。職場の机の引き出しに自分用の哺乳瓶を常備していることも知られていません。乳首を責められると甲高い声を出すことも知られていません。どうか知らないままでいてください。あとハンサムはあんまり好きではないとか言っといて、好きな俳優は玉山鉄二と口走るのもやめてください。次言ったらおっぱい吸うから。絶対吸う。すぐ吸う。神に誓って両乳まんべんなく吸う。

「会社じゃないです。おいしくない中華料理屋にいます」とゆり子さんに返信しました。「お一人ですか?」とまたすぐにメールが送られてきたので「いえ、店主のおっさんと二人きりです」とさらに返信したところ、「合流しちゃっていいですか?」「…おいしくないのに?」「何事も経験です」「今入ったところなんで、こっちが移動しますよ」「素直にお店の場所を白状せい」「どうしてもですか?」「せい!せいせい!」「わかりました」という流れになりました。今入ったところではないんですよ…と後悔しながらチャンポン麺の残りを一気に飲み干し、店主のおっさんにかくかくしかじかというわけなのでいったん片づけてとお願いしてから外に出て、再びの晩ごはんに備えて雨に濡れながらラジオ体操をしました。

もしかしてと思うたび、過去の悲しい記憶の扉が開いて頭を抱える。そんなことを繰り返した約一ヶ月だった。最初に会った日に好きになった。食事に行き、映画に行き、ロープウェイで登った山頂でお弁当を食べたり、その何もかもが幸せだった。でも家に遊びに行ってもいい?と言われた時だけはちがった。急に視界が赤く染まった。やむをえず大量のエッチなDVDを処分して、広くなった部屋で一人泣いた。当日は父と母をスーパー銭湯へ送り出してから歯茎から血が噴き出すまで歯を磨いて、陰毛が落ちてないか入念にチェックした後、ハッとしてインターネットの履歴を消去するなどやれることはやり尽くした。だからといって膝枕してもらってる時に勃起して、バレないよう慌てて裏返った拍子に股間が床にこすれて暴発しそうになってもいいわけではない。そんなことはわかっている。わかっているけど、これらがすべて置き場所に困るサイズのやたら高価な陶器を売りつけられる前フリだったとしたらと想像するだけで胸が苦しくなる。でも老眼、頻尿、四十肩、早漏包茎、間食、上司との軋轢による会社に行きたくなさなど、老化で心身ともに滅びの歌が聴こえてきたわたしにこのような出会いがあること自体、奇跡としかいいようがなかった。だとすればなおのこと、どんな結果になるにせよそろそろ自分の気持ちを伝えねばなるまい…などと考えながらぴょんぴょん跳ねていると、ゆり子さんから電話がかかってきました。

近くのコンビニまで来たというので迎えに行くと、傘を差した彼女の姿が見えました。淡い色のスカートがよくお似合いでした。今日はまた…北半球で一番かわいらしいな…盗撮したい…などと控えめな感想をつぶやいていると、こちらに気づいたゆり子さんが傘をぶんぶん振り回しはじめました。もはやおしりの穴に入れても痛くない。そんな気がしました。

おいしくない店に戻る道すがら、「おなかへりましたよ~」とふんわり微笑むゆり子さん。「そ、そうですね~」とへらへら笑う腹十二分目のわたし。できればこのまま到着しないでほしかった。ずっと二人で歩いていたかった。来年も、再来年も、隣にいたい。いっしょにお風呂入りたい。紙おむつ替えてもらいたい。そんな願いもむなしく薄汚い中華料理屋に着いてしまいました。腹立たしい。暖簾にプリントされた「味自慢」の文字が許せない。冷やし中華はじめる前に潰れてほしいとさえ思いました。

おいしくない店に入るやいなや、餃子やら酢豚やら海老のチリソース煮やらおいしくない料理をどんどん注文するゆり子さん。「唐揚げ食べますよね?」と聞かれて聞こえないフリをするわたし。わたしを見ながらにやにやと薄笑いを浮かべる店主のおっさん。実はついさっき食べました…と言いたかった。でも言えない。口を開いたが最後、言葉より先にかつて唐揚げだったものが出てくるにちがいなかったからです。

長くなったので省略しますが、一時間後には腹三十五分目になりました。おなかいっぱいの時においしくないものを食べ続けると人間は正常な判断ができなくなるようで、「思ったほどではなかったですね」となぜか不服そうな顔をするゆり子さんにわたしは大事な話があると告げ、えっ?という表情を浮かべる彼女に大事な話をしました。要するにあれです。紙おむつの話ではありません。ゆくゆくはそっちの話もしますが、今はまだその時ではありません。途中で自分が何を話しているのかわからなくなり、酸味の効いたもんじゃ焼きを出すイリュージョンを披露してうやむやにしてしまおうという考えが何度もよぎりましたが、そのたびに頭の中で髭を生やした初老の外国人が「カモンボーイ」「リミッターを外せ」とわたしを励ましてくれました。

「踏ん張れ、オレの膝!」

そう、スープレックスは投げるのではなく落とすのです。話し終えると何かとてもすっきりしました。もっと早く言えばよかったと思いました。ただゆり子さんの様子が少し変でした。変でしたというか、おそらく怒っている。わたしをじっとにらみながら一言、「今…ここで…する…中華料理屋のカウンターでする…話と…ちがう…うん…アホや…この人…」と今までに聞いたことのないトーンの声で言いました。何も言葉を返せずにわたしは固まりました。「田中さん…」「…はい」「とりあえずお箸は置きませんか?」「…はい」「…今ここで返事したほうがいいですか?」「…いえ、後日で。…後日があればですけど」という会話を経て店を出ました。お会計の際に店主のおっさんが悲しそうな顔をしていたので、何パーセントかはおまえのせいですよ…と目で訴えました。駅まで送る間、二人ともほとんど無言でした。気まずい感じのまま解散となり、とぼとぼ帰宅してから四畳半の隅で体操座りをしながら頭を抱えて浜省の「丘の上の愛」を繰り返し口ずさんでいると、メールの着信音が聞こえました。ゆり子さんからでした。お叱りのメールは仕事だけにして…と思いながら30分ほど気がつかなかったことにして、でも気にはなるので結局見ました。

「実はめっちゃうれしかったのですが、急すぎてびっくりして、そっけなくしてしまいました。今もどきどきしてます。あとたぶん、おじさんに聞こえてましたよ!」みたいなことがメールに書かれてありました。現実逃避が生んだ幻だなこれは…と思い、いったんiPhoneの電源を落とし、家を出て煙草の自動販売機まで行き、財布がないことに気づいて家に戻り、お風呂を沸かし、PCの電源を入れてFC2動画の人気ランキングを確認してからiPhoneの電源を入れて、もう一度メールを見ました。幻ではありませんでした。芋けんぴを太ももに刺しても痛みは感じませんでしたが、とにかく現実の出来事でした。奇声をあげながら枕に股間をこすりつけてしばらく腰を振った後、我に返って早すぎて逆にゆっくり見えるスピードで返信しました。

 

修羅の門 第弐門(9) (講談社コミックス月刊マガジン)

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