思い出美化委員会

産休中の女子社員のひとが会社に来ていました。無事にひねり出しましたよと赤ん坊の顔を見せに来ていました。他の女子社員やらとわーわー大騒ぎしててうるさいよバカ。今ならこの騒ぎに乗じてパイオツが揉み放題なのではないかと考えて、2秒で諦めました。それにしても(赤ん坊に関する知識がまるでないのでよく分からないのだけれど)生後3ヶ月だかそんなんを外に連れ回したりしてもええのんか。少なくともこの職場はだめだろうと思う。だって空気が悪すぎる。あらゆる意味で。出世欲に取り憑かれた魑魅魍魎(くさい息を吐いたりする類の)がウヨウヨしてるし一刻も早くこの場を去ったほうが賢明であるよ。と思いつつ、少し離れた場所から見ていました。というのも僕は僕で、赤ん坊ではなく、ほんの少しの、モヤモヤしたなんともいいようのない気持ちを抱きかかえていたからで、なんなのさ。ぼく桃太郎のなんなのさ。教えてよドラえもん。以前に恋人であったひとが母親になると、母親になったのを改めて目にすると、誰もがこんな気分になるのんか。ならへんのんか。どっちでもええわもう。


わりと昔の話になりますが、彼女は僕の恋人で、僕は彼女の恋人でした。社内恋愛的なあれでした。1年半ほどでうまくいかなくなって終わりました。で、なんならその後のほうが仲がいいよなおまえらはと冷やかされる程度の、職場の後輩以上親友未満な関係が今も続いています。2年ほど前だったか、彼女の結婚式のときにもスピーチを頼まれて、「みなさんこんにちわ。元彼でーす」つってヒンシュクを買ったりもしました。向こうにとってどうかは知らんけど、僕にとってはいい思い出です。彼女(または彼)の新居(新築、30年ローン)のトイレでわざとウンコを流さずに帰ったりしたのもいい思い出です。代わりに怒られたであろう彼、すなわち彼女のパートナーには申し訳ないとは思っているけれど。あと赤ん坊の名前は「優子」にすればいいよとしつこく薦めて、理由を言ったらどつかれたりもしました。


昔を振り返ったところで更にモヤモヤ感は増すばかり。とうとう部長が伊東四朗に見えてきて、危うく顔面に、モヤッとボールをぶつけてスッキリしてしまうところでした。なんだろう、赤ん坊からマイナスイオンでも出てるのか、それで癒されてるのかは知らんけど、赤ん坊を見つめる彼女の顔があんまりにも穏やかだったので、ちょっと羨ましくなって、そんな自分に腹が立つというか。今更それはないだろって、いいかげんにしろよと思った。そう、人生に「たられば」はないのだ。嫁はんとか、娘とか、息子とか、そういうグッズはアニメイトには売っていないのだ。とらのあなにだって売っていないし、もちろんまんだらけにもだ。今すぐ死んだらいい。人生をやり直せるのであれば精子あたりからお願いしたい。小倉優子さんの子宮にこっそり潜入したい。


自己嫌悪という名前のどす黒いビッグウェンズディが見えました。だから大騒ぎを終えた彼女が隣に来ていることにも気づきませんでした。気づいたところでうまく視線を合わせることすらできませんでした。あまつさえ「わざわざ猿を見せびらかしに来たの?」と憎まれ口を叩いてしまいました。なのに「そうそう。田中さんにはいっぱい見せびらかしとかないとね。そしたらちょっとは羨ましいと思ったりするでしょ?焦ったりするでしょ?もっと真剣に、自分のこれからとか考えたりもするでしょ?」とか彼女が真顔で言うもんだから、うぬぬぬぬ。僕の顔をのぞきこんでるおまえのことを今日から「図星ちゃん」と呼んでやる。そしたら僕は「見透かされマン」だ。わーい。必殺技は「背脂ビーム」とかでええわもう。


そうだった。彼女は昔から、いつだって一枚も二枚も上手で、僕をなだめておだてて木に登らせるのだった。今ではなんとも思わないけれど、つきあっていた頃はそのことが嬉しくて、誇らしくて、でもたまにそれがどうしようもなくむかついたりもしたものだった。なのでうっかり「ほんま、全然変わらへんのな…」と声に出してしまった。「ふへ?」と意味が分からずにきょとんとする彼女。その表情が一児の母親とは思えないほどにとても幼くて、思わず笑って、また目が合わせられなくなった。うんざりするほどまぶしくて、なんかそこだけ切り取ってしまいたい衝動に駆られて恥ずかしくなった。お願いだからその幸せオーラをちょっとは隠しなさいよ。と心の中でお願いしてたら課長が現れた。僕の前を通り過ぎた彼は、「おお、かわいいな。ちょっと抱っこさせてんか」と赤ん坊をもぎ取った。「あばばばばー」つって気持ちの悪い顔を更にゆがめていた。そんな課長の髪型は、赤ん坊とそっくりだった。はじまりとおわりというか、「生えかけ」と「ハゲかけ」で、語感もそっくりだった。あと半年も過ぎれば生後1ヶ月程度になることは自明の理だった。さよならピカチョウ。さよなら僕のつまらない感傷。

結論、思い出だけを抱いて死ぬのだ

結論、思い出だけを抱いて死ぬのだ