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賞与が出ればパスタ屋のテーブルは揺れる

週明けの会議で配布する資料をチェックする前に軽く充電しておこうとiPhoneを取り出し、アルバムから「世界遺産」フォルダを開いて浴衣姿で照れながらピースするゆり子さんの写真に話しかけていると、「ええ年して彼女できたぐらいで浮き足立って、見ててしんどいわもう…」と上司に声を掛けられました。ゆり子さんとはわたしがおつきあいをしている女性のことであり、つまり石田ゆり子さんとは無関係なわけですが、いまだかつてゆり子さんが夢に出てきたことはありません。大事な人によからぬ行為をしでかすのでは…という恐怖心から無意識のうちにブレーキを踏んでいるのかもしれません。石田ゆり子さんもまた然りではありますが、「医師たちの恋愛事情」などというタイトルからして嫌な予感たっぷりのドラマを見る勇気が出ないまま、展開を想像しては身悶える日々が続いた結果、夢の中でわたしは斎藤工さんに抱かれていました。斎藤、かなりのテクニシャンでした。「なあ、ほんとはこうしてほしかったんだろ?」とわたしの乳首(主に左)を執拗に責めながら耳元で囁く斎藤。そんなわけないから…と斎藤をにらみつけながらも身体は敏感に反応してしまうわたし。小一時間ほど滅茶苦茶にされてなかば放心状態でぐったりしていると、後ろからやさしく抱きしめてくる斎藤。おしりに何か当たってるから…とは言えずに、でもそんなにしたいんなら…もう一回していいよ…と斎藤の手をぎゅっと握るわたし。これ以上はさすがに書けませんが、目が覚めたら布団のシーツを握りしめていました。愛が憎しみに変わることもあればその逆もあるのでしょう。勉強になりました。

上司に声を掛けられた後、トイレへ駆け込んだわたしは驚きました。鏡には、確かにええ年をこいた男が映っていたからです。具体的には会社員というより番号で呼ばれるたぐいの顔つきをした男が映っていました。さらに足元を見ると、確かに浮き足立っていました。むしろ1センチほど宙に浮いていました。どうも最近ふわふわしているなという自覚はありましたが、まさか浮いてるとは。同期の人と会うたび「おまえ浮いとるよなあ」と言われては意味がわからず困惑していたのですが、これのことだったのか…と合点がいったわたしは、浮遊したままホバークラフトのようにすすっとフロアに戻り、気を取り直して資料をチェックしはじめました。しかし集中できず、読み進めることすらままなりません。霧のような黒いもやもやとしたものが頭の中に広がるのを感じました。部下の仕事ぶりをよく見ているなと上司の暇つぶしっぷり…もとい観察眼には心の底から敬服せざるをえませんが、エアコンの風でなびいているそれを前髪と呼ぶには無理があるだろう。さかなクンからしたらあなた、完全にチョウチンアンコウですよ。いや違う。そのようなことではないのです。おそらく以前に彼から浴びせられた言葉がもやもやの正体でした。

「おまえもなあ、結婚して家庭を持ったらもうちょっとピリッとするんやろなあ」

ピリッとしていない人に言われても…という以外の感想はそのとき特になかったのですが、ともあれ今のわたしには、この言葉を実現する可能性が生まれているわけです。辿り着けるかどうかは別として。だとしたら、ゴールに向かって走りだした部下に対して、まず彼がなすべきは激励なのではないか。にもかかわらず、蔑むとは何事か。冗談は生え際だけにしてほしい。多少浮き足立っていたとしても、文字通り地に足がついていなかったとしても、当面の間は大目に見てほしい。そもそもゆり子さんとおつきあいしていて浮き足立たない人間がいるとも思えない。下手をすると空を飛ぶかもしれません。君と出逢った奇跡が、この胸にあふれてる。そんな歌もありました。だからわたしは上司のデスクまで浮遊し、とある関係筋が飲み会で漏らした「最近娘さんが口きいてくれないらしいですね…」という情報をぼそりとつぶやき、また自席まで浮遊しました。

上司がぴくりとも動かなくなったのに満足して資料を読み進めたり手直ししたりしていると、電話がかかってきました。相手はもちろんゆり子さんでした。浮遊しながら休憩室へ行き、電話を取ると、いつもよりだいぶ興奮した声で「うれしいお知らせがあります」と言うので、で、できちゃった…?してないのにできちゃった…?と不思議に思いながら「落ち着いて説明してください。何かあったんですか?」と問うたら、「パスタのタダ券二枚もらいました!」とのことでした。ドリフならタライが落ちてくるところでしたが、ひとまず休憩室の丸椅子から滑り落ちて壁に激突しておきました。かわいいからいいのですが、ゆり子さんは食べ物のことになるとちょっとネジが緩むのです。電話を切ったわたしは「急用ができたので帰ります」と石像と化した上司に告げて、ギャバンの蒸着ばりの速度で帰り支度を済ませたのち退勤しました。

彼女の職場近くの駅前までお迎えにあがってからパスタ屋さんに行きました。ゆり子さんはポロシャツをお召しになっていたのですが、ウサギのようでウサギでない、笑い声はたぶんケケケッでしょうねみたいなキャラクターが胸元に刺繍されていました。わたしは流行に疎いのであまり自信がないのですが、もしかしたらゆり子オリジナルなのかもしれません。それはさておき注文した貝やらエビやらが盛られたパスタを食べながら、「彼氏ができたって職場の後輩に言ったらお祝いですってタダ券くれたんですよ~」とうれしそうに言うのでわたしもうれしくなりましたが、「日本兵みたいな髪型なんやでって言ったら声出して笑ってましたね…」と言いながら鼻をひくつかせはじめたので、すぐ無表情になったりはしました。

ところで事件は食後に起きました。コーヒーまたは紅茶までタダでついてくるというので、破産しますよこのお店…!おかわり自由とかやめるんだ…!いや、それとも実は大富豪が経営しているのか…?と推理を働かせていると、「ボーナスも出たことですし、旅行とかどうでしょう?ちょっと遠出したりなんかして」とゆり子さんが言いました。「それは泊まりということですよね?」と意地悪なことを言われた仕返しにわたしが言うと、彼女は少しの間を空けてから、こくりとうなずきました。もう一度書きますが、こくりとうなずきました。…いや…いやいやいや…いやいやいやいやいやいや、あなた、泊まりですよ?…つまり日帰りではないということですよ?…意味わかってますゆり子さん?ええ、ええ、顔を赤くされてもこっちとしても対応に困りますから。完全に想定外ですその返し。ゲオのアダルトコーナーの暖簾くぐったら常務がいた時ぐらいびっくりしてますから今。念のためいちおう説明しておきますけど、泊まりということはですよ、障子を開けたらひとつの布団に枕が二つ並んでたりするあれですよ?わたしも映像でしか見たことないから自信ないですけど…一緒に寝るだけでは終わりませんよねたぶん…とかなんとかいろいろ頭の中がぐるぐるしてきたのと同時に、若干ですよ、若干ですけど、パスタ屋のテーブルががたっと揺れました。これが超能力なのかわたしの勃起力の仕業なのかはみなさんのご想像におまかせしますが、なんにせよ、家庭を持てばピリッとするかはわかりませんが、賞与が出ればパスタ屋のテーブルは揺れる。これはゆるぎない真実です。

 

斎藤工 蜷川実花 箱根編(限定復刻版) (写真集)

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