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日本語が亡びたとき

豚なりに悪足掻こうぜ、と仕事の合間に飲み続けている杜仲茶の買い置きが切れるやいなや、職場から家へ電話をかけました。お昼前だし母はまだ、スーパーマルアイへ買い物には行ってないはず。あわよくばついでによろしくね、そう思いつつ。「はいもしもし、田中です」「息子です。そちらは母ですか?」「おお、愛する息子よ。どうしました?まさか、母が恋しくなったとか?」「いやそうでなくて、お茶がなくなりました」「まじでか」「まじです」「そら大変やー」「大変です。仕事どころではありません」「で、どこのおっちゃんが死んだん?あんたの友達のお父さんか?お通夜は今日?」「え、うん、いやいや、ちょっと待って」「あん?」「だから、あの、杜仲茶が」「とつう?何やの?誰やのそれ?」「あ、う、じゃなくて、50パック入りの、その、お徳用のやつが」「もうええ。うんざりやわ。それ以上しゃべらんといて。お母さんな、あんたが何言うとんのか全然わからん。あんたが日本人がどうかもわからへんようになってもた。だからもう、今日でお別れやな…」「う、うそー」 用件は伝わることなくあっという間に電話は切られ、親子の縁もあっさり切られました。気づくと僕は、体育座りをしていました。職場にいることも忘れて、途方に暮れました。「杜仲茶」と10回、ないし20回、つぶやきました。それほど言えてない感じはありませんでした。少なくとも、「スーパーニュース」でおなじみ永島昭浩さんよりは遥かに言えていました。となると、通話状態に何かしらの問題があり、聞こえにくかったと結論づけられます。はたしてそれは、最高にクールな考えでした。30分ほど仕事をしているフリをしたのち僕は、チャンドンゴンを呼びつけました。チャンドンゴンとは仮名で、つまり職場の後輩であり、ここらへん(id:foreplay:20060825:p1)をみていただければ彼の人となり、というより毛深さは伝わると思いますがそれはさておき、「じゃあ今から、杜仲茶って100回言います。ちゃんと言えてたら右手を、言えてなかったら左手を挙げてください」と僕はドンゴンに言いました。ドンゴンは目を真ん丸にしました。そして首を傾げ、やがて両手を挙げながら、「とつーた…?とつーたって何すか?」と遠慮がちに問うてきました。瞬間、あまりの寒気に身震いしました。それはないわと思いました。腹が立つのを通り越して、呆れてしまうのを通り越して、1周回ってやっぱり腹が立っていました。いったいこいつは会社に何をしに来ているのか、と疑問に思いました。隣の机に置いてあった見積書のようなA4用紙を裏返した僕は、ボールペンで「杜仲茶」と書き殴り、「これ!これ!」と大きな声を出しました。ドンゴンの目に、みるみる涙が溜まりました。そして「よ、読めませんし」と絞り出すように言うのでした。僕も泣きたくなりました。杜仲茶なんぞ、もういらない。もう二度と飲むまいと思いました。しかし、こんな気持ちになってまで痩せるべきなのでしょうか、人は。むしろここまでくると、おまえは痩せるべきではないという神の啓示、とともに滑舌の悪さを与えられた、選ばれし者の恍惚と不安を感じざるをえません。だって「杜仲茶」が「とつーた」なら「ヘルシア緑茶」は「へるしあろくた」だろうし、「黒烏龍茶」は「くりょうーりゃんた」だったりするに決まっています。そのくせ「コーラ」は「こーら」じゃないですか。あまつさえ「フライドポテト」は「ふらいどぽてと」で「ピザ」は「ぴざ」です。ほら、何者かの意図を感じるでしょ。

日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で

  • 作者: 水村美苗
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2008/11
  • メディア: 単行本